野うさぎの放浪記

だらだら脳の思いつきメモ、文章が書きかけで終わっていることもしばしば

5年経ってようやく書いてみる

あの日から5年経ってようやく書いてみる、と言っても、だいぶ忘れてる。

だいぶ忘れているくらいが書くのにちょうどいいのかもしれない。

あの日から変わったことはやはり持ち物の備え。

・都内に出かけるときは休日でも社員証を持ち歩く(被災したときオフィスに入れる)

・携帯の充電器・ケーブルを持ち歩く(あの日充電が切れる寸前で困った、というか切れた)

・外移動が短くてもしっかり着込む、羽織り物はマスト

・移動が短くても歩きやすい靴

・化粧ポーチの中身を省略せずに持ち歩く(口紅だけ、とかはやめる)

・お財布の中の現金を切らさないようチェック

・休みの前日は社用PCを家に持ち帰る(自宅勤務するのにオフィスまでPCを取りにいかなくてはならず大変だった)

あの日は3/8にスタートした「生誕100年 岡本太郎展」@東京国立近代美術館(竹橋)に行くために有給休暇を取って、昼くらいに家を出て、東京国立近代美術館に着いてTwitterで「なう」なんてつぶやいていたのは13:30頃。当時iPhone3GSで二年ほど使用していて電池もずいぶんヘタっていて、もうこの辺で充電残量40%位だったと思う。

寒い曇天の日で膝下までのダウンコートにカシミアの大判ストールにVネックセーター、コーデュロイのジーンズにフラットシューズ、確か雨予報じゃなくて、傘を持っていなかった。

チケットを購入し、コインロッカーにダウンコートを預け、1F展示室へ。途中何度か揺れたかもしれないけど、まわりも普通に鑑賞してて気のせいかな?大丈夫か、位だったかもしれない。一番の強震が来た時は最後の展示室にいて、踏ん張らないと立てないくらい揺れて、天井の格子の上の展示品を照らすライトが落ちてこないか・展示ケースや展示品(椅子・本など)が動いたり落ちてこないかドキドキした。すぐに女性のスタッフさんが外に出るよう指示して、みんなが揺れる中で小走りに展示室を出て、そのまま建物の外の入り口の前庭に出るよう誘導されたけど、このまま外に出たら寒いと思い、ロッカーにダウンコートを取りにちょっと寄ったら、冷静に行動しているように思えてもやはり気が動転しているのか、ロッカーの鍵がなかなか開かない。

鍵が開かずにもたもたしていたらスタッフの女性が寄ってきて、鍵を開けてくれて、ダウンコートを持って外の前庭へ。

そこには40~50人くらい館内から避難した人たちが連れ同士固まって、ガラケーワンセグを視たり、スマホガラケーYahoo!ニュースを調べたりして「震度7だって」など言っていた。電池残量が40%位で少なかったけど、Yahoo!ニュースを視ようとしても(当時SoftBank契約だった)回線が混んでいるのかなかなか繋がらない。そのうちにまた余震が来て、竹橋の交差点の信号機や道路標識がありえないくらいぐらんぐらんとしなって揺れてて、あんなに揺れるもんなんだ・・・と思った。

竹橋の交差点の先の読売新聞社のビルからものすごい人が吐き出されて、みんな建物から離れようと道路を渡り、お堀沿いの道と橋に人がいっぱいいた。

16時過ぎくらいに備蓄品を持ったりヘルメットをかぶった人が北の丸公園に向かっていく長い列が出来てて、ヘルメットにいろんな会社名が書かれているなとか、ハイヒールの女性が多いなとか見てると、スタッフの女性が今日はもう休館になる・招待券を配るとアナウンスして、招待券をもらっていると小雨が降ってきて、ビニール傘も一緒に配ってくれた。

交通機関がまったく動いていないのはYahoo!ニュースで見たので、とりあえず東京駅に行けば何とかなるかと思い、防災リュックをしょった人やヘルメットをかぶった人たちと一緒にお堀沿いに東京駅に歩いていった。たぶん二重橋から丸の内に行ったと思うんだけど、丸ビル1F吹き抜けに人がいっぱい集まっているのが見えて、一旦暖を取ろうと入った入り口のすぐ上に大型ビジョンが設置されていて、ちょうどどこかの港に津波が押し寄せて船が波にのまれて港に乗り上げようとしてて、おそらく100人~150人くらいの人が無言でその映像を見上げていた。

1F吹き抜けの壁沿いには座り込んでいる人がいて、警備員さんも止めず、立ち止まる人・座り込む人・立ち止まっている人を掻き分けて通り過ぎる人で混雑してた。

その日中には電車が動くだろうと楽観してて、東京駅にいくと、改札は開放していて中は座り込む人・運行情報用の液晶にNHKが放送されていて、放送をじっと見る人・ケータイの充電している人・公衆電話に並ぶ行列なんかがいて、キオスクも営業中止・飲食店も営業中止で、当時工事中で回り道してだいぶ遠かったけど八重洲地下街のドラッグストアで非常食になりそうなものと水をゲット、構内のユニクロで暖を取るものを買っている人もいた。

歩き回っている時もたびたび揺れ、ここは待つしかないと決め込み、八重洲の改札前で背中がもたれるところのスペースに座る。周りには旅行中の家族やサラリーマンや若い女性一人や年配の女性連れがJRのアナウンスや改札に設置された液晶のニュースをBGMに黙って座り込んでた。

20時頃になるとそれまで体感余震が何度もあるのに、東海道新幹線の下りだけ動かすとアナウンスがあり、東海道線も動くかなぁと思ったけど、そんな気配はなかった。22時頃に東京駅にいる人は東京国際フォーラムに受け入れ誘導するとアナウンスがあり、みんなぼちぼち急ぐ風もなくこのまま電車も動きそうにないから仕方がないから行こうかなって感じで、動き始めたところ浅草線・銀座線あと何線だったかが短い区間だけど動くかもしれないというアナウンスもあり、どっちみち有楽町方面だな・・・と歩き始めたら知り合いから連絡があり泊めてもらえることに。相変わらず改札は開放されていて、丸の内側に行き、ガード下沿いに新橋まで。たぶんこの辺で23時くらいだったかも。新橋で浅草線が泉岳寺まで行くというので、ここでも改札が開放されていて、スイカも切符もなくそのままホームへ。ホームには電車がすでにいたと思う、乗るとどんどん人が乗り込み、ありえないほどのぎゅうぎゅう詰めに。でも次の電車がいつかわからないし、誰も文句も言わず会話もなくただただ我慢。

泉岳寺について階段を上がったら一国は人人人の波と車の大渋滞。そこを抜けるバイクと自転車。歩道は人があふれ、ゆっくりゆっくり進んでいく。南下して道々コンビになどあったけど、棚はすでに空状態。品川駅に着くと駅前交番近くの東京三菱UFJのATMの狭い空間に何人も座って暖を取っていた。高輪口の階段にも沢山人が座り込んでいたと思う。

泉岳寺から品川の間がその日を象徴する光景だった。

ここですでにiPhone3GSの充電は数%になっていて、「社員証があればオフィスに入れたのに・・・」って思いつつ、知り合いと合流したのが24:30くらい。夜食をご馳走になってお風呂を頂いてそのまま就寝。

翌日遅い朝食をご馳走になりながらTVを視ると悲惨な光景ばかり。昼頃JRが運行再開するというので、ちょっと遅れて午後に出発。

品川駅まで行って東海道線に乗ると、土曜の午後一の下りにしてはそこそこ混んでたけど、重苦しい雰囲気で、なんかとっても天気がよかった。最寄の駅からはどう帰ったのかよく覚えていないけど、たぶんバスかな。普段なら沢山待機しているタクシーは一台もいなかった気がする。駅の商業施設がやっていなくて、駅前のお店も大して開いてなないだろう、と徘徊せず。たぶん疲れていたのかも。

15時過ぎごろ帰宅して、その後だいぶ経ってTwitterに帰宅したことをつぶやいてる。この間一日なんもつぶやいてないから充電切れてた。

帰宅して、私用PCからVPN経由でVPCで会社のサーバにアクセス。(会社のPCはオフィスにおきっぱなしだった)山のようにメールが来てて、派遣さんの安否を確かめる指示が出たけど連絡先がわからないから知っているか?と連絡が来てて、派遣さん全員の個人メールにメールするも一人だけ未達で、でも派遣さんのうち一人が変更後のメールアドレスを知ってて、2時間ほどで全員の返事が来て、全員と連絡が取れた旨返信した。

iPhone3GSを充電して知り合いと連絡を取り合い、あとは二日間起こったことをTVで確認した。

翌日私用PCからまたVPN経由でVPCで会社のサーバにアクセス。19時ごろ三日間自宅勤務指令が出る。至急で処理しなきゃいけない業務があるから誰かできるか?という依頼メールや催促が個人ケータイ宛てに電話がくるも、派遣さんはPC持って帰っていないし、自分もVPCERPシステムに入れず、(さらに、その後すでに国外脱出してた外人上司から遠隔で鬼催促が来て)何も出来ず困る。(しかたないから火曜日朝PCを取りにオフィスに行った。

その日日曜日は東京電力計画停電をグループごとに輪番すると言い出し、情報が錯綜して各グループの停電時間はNHKでわかったものの、自宅が何グループかわからず、深夜過ぎにTVKのHPにアップされたスキャンされたおそらく報道資料のPDFでようやく判明。調べて判明するまで4時間くらいかかる。このころから「ぽぽぽぽーん」の公共広告機構のCMだらけになりTVを消す。